うろこ雲がさらっと描かれた空を
時折みながら、8時過ぎまで寝床で読書。
いいじゃないか、休みぐらい。
誰も責めてなんてないのに、
自分に言い訳してる。
11時前にイオンに向けて出発。
今日も濃かったな。
若者たちも来た。
抱っこの仕方や、足をあっためることや、
お雛巻きを伝えるとえらく感動してくれた。
おせっかいおばさんはうれしくて、
調子にのってべらべら話してしまった。
若いエネルギーはいい。
小さな命を一生懸命に守ろうとしている姿が、
バカ息子と重なり目頭が熱くなる。
何気に体重のみの人もきっかけを作れば、
ポツンポツンとはなしはじめた。
以前倉吉の乳児訪問で初めて会ったお母さんも、
牧田さんだと思った。
と立ち寄ってくれた。
ありがたいことだ。感謝。
帰宅後、昨日のカレーと朝作った肉じゃがをたべる。
食事中、
「そうかもしれない」 耕治人(こう はると)
についてつれあいにふっかける。
内容は、
~50余年連れ添った妻が認知症に、介護する夫も口腔内癌に。妻は特別養護老人ホームに、夫は大学病院に。妻が付き添いの人に連れられて車椅子で夫の病院に面会に来た時、「この方がご主人ですよ」の言葉に、妻は「そうかもしれない」と。~
この場面、どう思う?
あんただったら、どうする?
うーん・・・ないよな・・・うーん・・・。
でもな、あるだよ。
そうなるかもしれんだよ。
・・・おれは、深くは考えたくない。
この本は、以前読んだ徳永進さん、鶴見俊輔さん、もう一人は忘れたけど
その人らの本に引用された本で、ずっと気になっていた場面。
実は読んでない。
どんなに愛し合っていても、最後はそうかもしれない関係に
なるんかなあ。
他人が一緒になって、家族になって、こどものいる人がいて、
いなくても、とにかくひととき一緒の時間を過ごす。
そして、また他人にそうかもしれない関係になってさようなら。
もちろん、そうならない人も大勢いるだろうけど、
結婚や家族っていうつながりは、
絶対とか・・・でなければ・・・じゃあないよな。
あいまいなのかも。
家族や結婚を観るとき、
木を見て森を観ずでは、せまくてしんどいような気がする。
生きてる。
いのちの悠久な流れの中で、一つ一つのライフイベントを観ると、
想いや、受け止め方はゆるくなるような気がする。
もし、つれあいが私に向かって
そうかもしれない。
といったら、
かもしれないですねえ。
と返そうかな。
宝のようなメモリーがなくなっても、
関係性が変わっても、
それも一つの形。
私に記憶がある限り、そこにつれあいがいれば
その人といっしょにいようと思う。
案外、面白いかもしれない。
*三日月。
夕暮れ時に撮った1枚。
1番星みたいなのもある。
ビミョーなグラデーション
がしんみりさせるな。
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